なごり雪
昨夜から急に振り出した雪は、朝になってもまだ降り続いていた。
踏み固められた雪が、ホームの端にうっすらと張り付いている。
線路は薄い雪に覆われ、盛り上がったレールによって、白い幾何学模様を成していた。
僕は腕時計に目をやった。
始発電車の到着時間は既に5分も遅れている。
たまに降る雪だから仕方ないとは思う反面、このくらいの雪でどうして、とも思う。
帰省だから急ぐ必要は無いけれども、待たされるのは苦痛だった。
鉛色の空からひらひらと舞い落ちる粉雪を横目に、案内板を見た。
電車が遅れています。ただそれだけだ。
僕はふと、小さめのボストンバックを華奢な肩に抱えている、見覚えのある女性に気づいた。
彼女は、南のほうをじっと眺めている。彼女も、まだ姿の見えない東北本線を待っているのだろうか。
僕は暫く迷った後、思い切って声をかけた。「矢田さん?」
女性は、細い目を少し見開き、瞳を上下させる。
しばらくして髪に触れ、口許を緩めながら、矢田圭は答えた。
緩やかなウェーブのかかった黒髪に張り付いていた雪が、はらりと落ちる。
「もしかして、曽根君?えっと、一年ぶりだっけ」
やっぱりそうだ。思いもしなかった偶然。
桜色を帯びた小さな頬。静脈が透けて見えそうな、白い首筋。
銀色に染まった背景に、白い肌が溶け込むようだ。
柔らかな白のセーターに浮かぶ、滑らかな胸のライン。
目の幅がなくなるまでに目一杯微笑む、優しい表情。
僕は、目の前にする圭の姿に、次の言葉を忘れてしまっていた。
圭は、中学時代の僕の初恋の相手だった。
誰にも言いもせず、言えもせず、ただ僕の心の底でくすぶり続けた想い。
高校になって進路が分かれてしまい、そのまま会えなくなっていた。
そして去年、同窓会で再会した彼女に、僕は最初、気づくことができなかった。
中学の頃、人目を引いていた女の子達が、少なからず、ある種劣化していたのと対照的に、
圭は、綺麗になっていた。貌も、化粧も、着こなしも、洗練されていた。
ぐっと垢抜けたようだった。思わず見とれてしまっていたのを覚えている。
こんなに綺麗になるなんて、と後悔したのも覚えている。
けれど圭は、そんな去年より、ずっと綺麗になっていた。
「電車、あまり遅れなければ良いけど」
僕はやっと言葉を搾り出した。
圭は、そうね、と微笑んだ。
「帰省?」
「うん、そんな感じかな」
「感じって・・・・・・」
圭はちらりと僕を見た。
一瞬、口許に形ばかりの微笑を浮かべ、視線を地面に落としながら呟いた。
「東京も、もう、最後かな」
それ以上、僕には聞くことは出来なかった。
圭が東京を離れる最後の日。待っていたように振り出した季節外れの雪。
雪が少し強くなったようだ。
僕たちを包む白い背景が、緞帳のように規則正しいリズムを刻みながら、間断なく降りてくる。
傍らの踏切を自動車がこわごわと渡っていく。
その後ろを、中学生たちが器用に自転車で通り過ぎる。
30分遅れで、急行電車が滑り込んできた。
乱れたダイヤにもかかわらず、休日早朝の、そしてこの雪のためか、車内の人影はまばらだった。
僕たちは4人がけのボックス席に、互い違いに座った。
遅れた時間を少しでも埋めようとするように、忙しなくドアが閉まり、電車が動き始める。
暖房の効いた車内は、冷え切った身体に心地よかったが、直ぐに暑くなった。
圭はロングコートを脱ぎ、座りなおす。
濃いグレーのスカートから僅かに白い膝頭が覗いた。
圭は僕の視線を気にしたのか、膝を隠すようにコートを膝に置き直した。
中学自体のこと。ふざけているうちに過ぎてしまった大学時代のこと。
雪に弱い電車。当たり前に見てきた積雪が、ここではひどく珍しいこと。
僕の引越しのこと。最後に残った身の回りのものだけを持って、今日戻ること。
とりとめも無い話をポツリポツリとしている。
言葉と沈黙とが交互に訪れる。
こんなとき盛り上げる言葉が自然に出てこない自分に、嫌悪を覚える。
僕は、曇った窓を手で拭いた。白線が、鋭角を描きながら後ろに流されていく。
北に向かったから、というわけでもないのだろうけれども、雪は、またすこし強くなったようだった。
「積もるかな」
僕は、何度目かの質問を呟いた。
「そうかもね」
圭は同じように答えた。
列車は栃木のある駅に止まる。
駅に降り、ホットのコーヒーを2本買う。
雪はだいぶ弱くなっていた。
飲み物を探すのとおつりに手間取り、戻ってみると、圭は寝てしまっていた。
「朝早いし、仕方ないか」
座りながら圭を見ると、膝を隠していたコートが少しずれて、形の良い膝頭が覗いていた。
その間に見える、柔らかそうな内腿・・・。
「きっと、もう、逢えないんだよな・・・・・・」
ぼそりと呟く。
巡り遇った過去。確実に過ぎ行く現在。そして、また過去となる未来。
電車は確実に北へ向かっている。
何度と無くためらったあと、僕は圭の隣に座ってみた。
シャンプーの香りが伝わってくる。心地の良い匂いだ。
僕は、缶コーヒーを圭の傍に置きながら、圭の手に触れてみた。
柔らかい。
もう一度、今度はそっと握ってみた。
圭から伝わるなまのぬくもりに、僕の中で、すこしずつ何かが壊れていくような気がした。
僕の胸にうず高しと積み上げられた圭への想いに、理性が支え切れなくなっていくようだ。
屋根に重ねられた雪が、とあるきっかけでバランスを失い、ついにはどさりと地面に落ちるように。
僕は、ためらいながら右手を圭の内腿に置いた。
圭の身体が小さく揺れたが、起きる気配は無い。
僕の身体が硬くなっていく。
右手で、ゆっくりと撫でる。指先に感じる、滑らかな肌の感触。温かな皮膚。
僕の良心を、現実を引きずり込んでいく、背徳の底なし沼。
もがけばもがくほど嵌り、堕ちていく。
僕は、指を、慎重に肢の奥に滑り込ませていく。
手が動くたびに、柔らかな感触が体中を這い回る。
動くたびに露出する、圭の透きとおるような内股。
圭はまだ目を覚ます気配は無いようだ。よほど深く寝入っているのか。
僕は、ジーンズ越しにもわかるくらいに膨張したそれを左手で撫でながら、右手で圭の股を触り続ける。
圭の手をとり、硬くなった股間の上に置いた。その手を上から押さえつける。
握った圭の手をゆっくりと前後左右に動かす。
――ああ、圭が僕に触れている。
指でスカートを掻きあげる。内腿の手を奥へやる。
感じていた弾力が、徐々に柔らかくなっているのを感じる。
張りと滑らかさの程よく融和した曲線を僕の掌は下っていく。
そして、指先に感じる布の感触。
僕は、指先をそこに、丹念にこすりつける。
肢の中央の柔らかい場所。
指を縦にずらす。強く奥に押す。指が程よい弾力で押し返される。
やがて、そこが深くなっていったように感じる。
――もしかして、圭、濡れてきたのかい。
僕は、指をパンツの下端から潜り込ませた。
指先にねっとりとした液体がまとわり付く。
妄想の中で、何度もたどり着いた場所。何度も僕の前に晒された場所。
けれど、いつもおぼろげで、右手の慰めとともに霧散しまう場所。
そして、触覚に感じる現実。
圭の股間を圧迫させている圭の手を、さらに激しく動かす。
僕は人差し指を、圭の泉の奥に差し入れた。
狭い壁を指で押し広げる。
圭の身体がぴくりと動く。
――ああ、圭。イインダネ。僕もイイ。一緒に、一緒にイコウ。
突如、甲高い音が横で響く。
イヤ、そう聞こえた。もう一度同じ音。
そして今度は、はっきりと聞こえた。ナニシテルノ。
同時に圭の身体が離れていった。
僕は離れる圭に近づく。
――ドウシタンダイ、圭。僕とイッショニイコウ。
瞬間、僕の耳の傍で、破裂音が響いた。
直後、胸に強い痛みを感じ、僕は居た席に倒れこんだ。
圭を見る。
無造作に膝に置かれたコートで、乱れたスカートは覆っていた。
短く、そして激しく漏れ聞こえる呼吸。
赤く充血した瞳で、僕を睨んでいた。
「あ・・・」
頬が沁みるように痛む。
僕の濡れた指先が冷たかった。
その直後、僕は地面に押し付けられるように拘束された。
騒ぎを聞きつけた車掌だろう。
圧迫された胸が痛い。乗客の視線が突き刺さる。
違うんだ、圭。
僕は思わず叫んだ。けれどそれが声になったかはわからない。
次の駅で僕と圭は降ろされた。
暖房で温まった身体には、外のの空気は凍えるように寒い。
僕の沸騰しきった脳も、急速に冷やされていくのを感じる。
興奮の変わりに、後悔ばかりが脳裏を満たしていた。
僕と圭は待っていた警察官に簡単な質問をされ、圭は直ぐ車内に戻された。
ごめんね、僕は圭に云った。
圭は僕を一瞥もせず、車内に戻っていった。
電車が動き出す。
警察官に連れられながら振り返ると、圭が窓越しに僕を見ていた。
弁解の余地も無い。何を言われても仕方が無い。
けれど僕は、圭に、さよならを言われることだけが、とても怖かった。
僕はそれ以上圭を見られず、じっと俯く。
足元に落ちた雪が、鉛色の隙間から顔を出した陽に、すぐに融かされていく。
ふと振り仰ぐと、電車はもう見えなくなっていた。